徳川家定 wikipedia ウィキペディア 徳川家定
徳川家定 とは 徳川家定 篤姫 徳川家定 障害
徳川家定 正室 徳川家定 子供
「新選組!」の総長・山南敬助を演じた堺雅人さんの 徳川家定が注目を集めています。そもそも、徳川家定と言う人物には世間では認知されていませんでした。NHKの大河ドラマ「篤姫」で篤姫が嫁ぐ将軍として世間に認知され始めたのが家定というキーワードが浮上した原因でした。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
徳川 家定(とくがわ いえさだ)は、江戸幕府第13代征夷大将軍。
文政7年(1824年)4月8日、第12代将軍・徳川家慶の四男として江戸城で生まれる。家慶の男子は殆ど早世し、生き残っていたのはこの家定だけであった。しかし、幼少時から病弱で、人前に出ることを極端に嫌う性格だったと言われている。その為、乳母である歌橋にしか心を開かなかったらしい。一説には、脳性麻痺であったと言われる。
天保12年(1841年)に大御所・徳川家斉(第11代将軍。家定の祖父)の死去後、(第12代将軍・家慶の)将軍継嗣となる。しかし家慶は、家定の器量を心配して、一時は徳川慶喜を将軍継嗣にしようと考えたほどである。だが、老中・阿部正弘らが反対したため、結局は家定を将軍継嗣とした。
嘉永6年(1853年)、家慶がアメリカのペリー艦隊来航の最中に病死した事を受け、後を継いで第13代将軍となった。
将軍として
安政元年(1854年)、ペリーが7隻の艦隊を率いて再来日すると、幕府は日米和親条約に調印した。安政4年(1857年)には、アメリカ総領事のタウンゼント・ハリスを江戸城で引見している。
しかし家定は病弱だったうえ、もともと悪かった体調が将軍就任以後はさらに悪化して、ほとんど廃人同様になったとまで言われている。このため、幕政は老中・阿部正弘によって主導され、安政4年(1857年)に正弘が死去すると、その後は老中・堀田正睦によって主導されることとなった。
[編集] 将軍後継者争い
家定は正室として鷹司政煕の娘・任子(天親院有君)や一条忠良の娘・秀子(澄心院寿明君)を迎えたが、いずれも早世し、近衛忠煕の養女・敬子(天璋院)との間にも実子は生まれなかった。このため、将軍在位中から後継者争いはすでに起こっていたが、家定の病気が悪化した安政4年(1857年)頃からは、それが激化することとなる。
家定の後継者候補として、井伊直弼らが推薦する紀州藩主の徳川慶福(のちの徳川家茂)を将軍後継に推す南紀派と、島津斉彬や徳川斉昭が推す一橋慶喜(徳川慶喜)を推す一橋派が上がり、この両派が互いに将軍継嗣をめぐって争う。
家定はこの将軍継嗣問題でも、表舞台に出ることはほとんど無かったが、安政5年(1858年)6月25日、諸大名を招集して慶福を将軍継嗣にするという意向を伝え、7月5日に一橋派の諸大名の処分を発表するという異例の行動を見せた。なお、家定が将軍らしい行動を見せたのは、これが最初で最後である。
安政5年(1858年)7月6日、薨去。享年35(満34歳没)。後を養子・徳川家茂が継いだ。
徳川家定 とは 徳川家定 篤姫 徳川家定 障害
徳川家定 正室 徳川家定 子供
「新選組!」の総長・山南敬助を演じた堺雅人さんの 徳川家定が注目を集めています。そもそも、徳川家定と言う人物には世間では認知されていませんでした。NHKの大河ドラマ「篤姫」で篤姫が嫁ぐ将軍として世間に認知され始めたのが家定というキーワードが浮上した原因でした。
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徳川 家定(とくがわ いえさだ)は、江戸幕府第13代征夷大将軍。
文政7年(1824年)4月8日、第12代将軍・徳川家慶の四男として江戸城で生まれる。家慶の男子は殆ど早世し、生き残っていたのはこの家定だけであった。しかし、幼少時から病弱で、人前に出ることを極端に嫌う性格だったと言われている。その為、乳母である歌橋にしか心を開かなかったらしい。一説には、脳性麻痺であったと言われる。
天保12年(1841年)に大御所・徳川家斉(第11代将軍。家定の祖父)の死去後、(第12代将軍・家慶の)将軍継嗣となる。しかし家慶は、家定の器量を心配して、一時は徳川慶喜を将軍継嗣にしようと考えたほどである。だが、老中・阿部正弘らが反対したため、結局は家定を将軍継嗣とした。
嘉永6年(1853年)、家慶がアメリカのペリー艦隊来航の最中に病死した事を受け、後を継いで第13代将軍となった。
将軍として
安政元年(1854年)、ペリーが7隻の艦隊を率いて再来日すると、幕府は日米和親条約に調印した。安政4年(1857年)には、アメリカ総領事のタウンゼント・ハリスを江戸城で引見している。
しかし家定は病弱だったうえ、もともと悪かった体調が将軍就任以後はさらに悪化して、ほとんど廃人同様になったとまで言われている。このため、幕政は老中・阿部正弘によって主導され、安政4年(1857年)に正弘が死去すると、その後は老中・堀田正睦によって主導されることとなった。
[編集] 将軍後継者争い
家定は正室として鷹司政煕の娘・任子(天親院有君)や一条忠良の娘・秀子(澄心院寿明君)を迎えたが、いずれも早世し、近衛忠煕の養女・敬子(天璋院)との間にも実子は生まれなかった。このため、将軍在位中から後継者争いはすでに起こっていたが、家定の病気が悪化した安政4年(1857年)頃からは、それが激化することとなる。
家定の後継者候補として、井伊直弼らが推薦する紀州藩主の徳川慶福(のちの徳川家茂)を将軍後継に推す南紀派と、島津斉彬や徳川斉昭が推す一橋慶喜(徳川慶喜)を推す一橋派が上がり、この両派が互いに将軍継嗣をめぐって争う。
家定はこの将軍継嗣問題でも、表舞台に出ることはほとんど無かったが、安政5年(1858年)6月25日、諸大名を招集して慶福を将軍継嗣にするという意向を伝え、7月5日に一橋派の諸大名の処分を発表するという異例の行動を見せた。なお、家定が将軍らしい行動を見せたのは、これが最初で最後である。
安政5年(1858年)7月6日、薨去。享年35(満34歳没)。後を養子・徳川家茂が継いだ。

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